前回は、人はどう生きるべきか、をみてみました。
今回は、人参を切ると涙が出る、をみてみます。
先日、子供が夏祭りの中で子供料理教室に参加した時の話しを聞かせてくれました。
その時のメニューはカレーで、年齢に応じて調理の役割が割り当ててあったようです。
うちの子供は、人参を切ったことを話してくれました。
そして、その人参を切っている時に目が痛くなって涙が出たので、もう人参は切りたくないというようなことを言ってました。
タマネギを切っていて涙が出たというのなら、何てことない話しなのですが、人参を切って涙が出るなんて聞いたことがないので、「ほんとに涙が出たの?」と確かめてみました。
すると、疑われているようで気分が悪かったのか「ほんとに人参を切っている時に涙が出たんだよ」と強く言うので、冗談を言っているとかではなく少なくとも本人は本当にそう思ったようです。
あとで、その時の様子をその場にいた人に聞いてみると、うちの子供が人参を切っていた真横で違う子がタマネギを切っていたということがわかりました。
わかってみると何でもないことで、隣でタマネギを切っていることの影響で涙が出ていただけなんですが、本人は「自分は人参を切っている時に涙が出た」と理解していたということでした。
私は、このことがわかって、「おもしろいな」と思いました。
自分もこれに似たようなことを沢山やっているんじゃないかなという思いが出てきました。
この人参のケースは、「人参を切っている」という事実と「涙が出ている」という事実を関連づけて捉えたんですね。
「人参を切る」と「涙が出る」の間に因果関係があるように見たということです。
同時に2つのことが起こっている時に、本当は違う理由で起こっていても注意深く見なければ、ほぼ自動的にそこに関連があるような捉え方をしているようです。
例えば、誰かに会って「こんにちは」とあいさつをした時に、相手が機嫌悪そうだと、「自分が原因で相手が機嫌を損ねたのかな」と思う人もいますね。
本当は、あいさつした人とは関係なく、ただその前に落ち込むようなことがあったり、ただ寝不足だったりしただけかもしれません。
人によっては、逆に、同じようにあいさつした時に相手が笑っていると、「相手は自分のことが好きに違いない」と思って疑わないというようなこともありそうです。
「人参を切って涙が出た」という話しを、大人が真に受けないのは、これまでに人参を切って涙が出たという体験がなかったり、そういう話しを聞いたことがないというのとタマネギを切って涙が出たという経験があるので、「何かおかしいぞ」と思えるんですよね。
もし、この理由が役に立たない設定をされると、まともに信じてしまうかもしれません。
例えば、「最新のバイオテクノロジーで、人参にタマネギの涙が出る成分を組み込むことに成功したので、この人参を切ると涙が出るんです」なんて言われると、そんなこともあるかもしれないなと私なんかは思ってしまいそうです。
うちの子供の場合も、次に人参を切った時に涙が出なくて、その後何回か同じ様な経験をしていけば、「人参を切って涙が出た」と言っていたことも忘れてしまうでしょう。
何回も経験するようなことだと、自然に認識も修正されて行きますが、滅多にしないような体験なら、最初の1回の体験の印象や理解をそのまま持ち続けていることもあると思います。
自分が「確かにそうだ」と思って疑いもしていないことも、ひょっとしたら勘違いで、何かのきっかけで思い込んでいるものがいくつもあるんだろうなと思います。
逆にいうと、自分も他の人も含めてみんなが、ものごとをそんなに正確に的確に理解しているわけではなく、色んな所に思いこみが沢山あるんだろうということでもあります。
そう思うと、あまり細かいことにこだわらないでできるだけおおらかにいて、当然あるであろう思いこみや勘違いを見つけた時には、良いとか悪いとか、誰が悪いとか言わずに淡々と修正していけばいいなと改めて思いました。
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