前回は、大丈夫と思える自分、をみてみました。
今回は、こっちのような気がする、をみてみます。
何かを決める時、特に大きな決断をする時、過去の分析や合理的な考え方だけでは、答えを見つけられないことが多くあるように思います。
経営者にお気に入りの占い師がいたり、責任ある立場にある人ほど、最後の最後の決断は直感のようなものを使っているのではないかとも思います。
自分自身に関しても、「セオリーからいくとこうなんだろうな」「普通はこうするんだろう」「こうする方が周囲の理解は得やすいのかな」という選択肢が思い浮かんだ時に、「何か気が進まない」「気が乗らない」「やりたくはない」というような気分になることがあります。
そう思いながら、その流れのままにやってみた時には、うまくいかなかったり、それなりにうまくいってもあまり楽しくなかったりしました。
そして、今度はあれこれ考えて出てきた答えが気が進まない時には、「普通はこんなことしないんだろうけど、この方が楽しい」と思える方を選んでみることがあります。
何回かそんなことをしていると、考えて出てきた正しいと思えることをしている時より、楽しい方を選んでいる方が、困ったことが起こらないというか良い気分でいられるような感じがしています。
必ずしも、合理的ではないし、最大効率や最短距離を進んでいるのかわからない時もありますが、大きな問題は起こらないし、全体がマイルドになるというか、関わる人の感情もトゲトゲしたものがなく穏やかな感じで進めていけるように思います。
ただ、なかなかそれを選んだ理由をうまく人に話せないというのはあります。
しいていうなら、何となくそんな気がしたから、こっちの方が良い感じだったので、直感で、というしかありません。
最近は人にどう説明するのかというのを別にすると、自分の中ではこんな風に選んでいることがどんどん増えています。
不安や怖さを抱えながら選択しようとする時には、頭があれこれ考え始めます。
そして、失敗した時に言い訳しやすい方や、人に説明しやすい方などを選ぼうとする動きが強くなってきてしまうので、選択という行為をする前にできるだけ不安や怖さは手放しておいた方が良いと思います。
こんな風にしていると、最近は考えることがどんどん減ってきて、感じることをベースに選択することばかりになっています。
先日、子供といつもより遠くまで散歩に行きました。
少し離れた所に昔懐かしい駄菓子屋さんがあるので、そこまで行こうということになりました。
以前に一度行ったことがあったのですが、子供はその道をハッキリとは覚えていない様子でした。
ふと浮かんだ私の遊び心で、分かれ道に来る度にどちらに行くか子供に決めさせることにしました。
最初は、一緒に面白がっていたのですが、一つ目の分かれ道に来てどちらかを選ぶ時には、「間違ったらどうしよう」「間違っても良いの」と、間違うことがとても気になるようでした。
何度か「間違っても良いよ」「間違ったらまた戻ったらいいだけやし」と言ってやると、またおもしろさを思い出して、「わからんけど、こっちのような気がする」と選び出しました。
何を基準に選んでいたのかわかりませんが、そんなに遠回りすることなく無事に駄菓子屋さんに着くことができました。
帰り道は一度も通ったことのない所を通って帰るのですが、今度は目的を設定することにしました。
それは楽しい所を通ることと家に帰ることでした。
実際には、初めて通る道で家に帰る道は知らないので、楽しそう方を選んで最後に家に着ければ良いという感じでした。
行く時は、一生懸命前に通った時のことを思い出そうとしていましたが、帰りはそれはできません。
ほとんど手がかりが無い状態で、まさに何となく決めていくしかない状態です。
分かれ道に来ると、「う〜ん、こっち」と少し時間をかけて決めていました。
そして、少し時間がかかっていた時に「別に1人で一生懸命考えなくても、そこにいる犬さんや花や木や空の雲に聞いてみても良いんだよ」というと、うれしそうな顔をして犬さんに聞いていました。
「楽しくてお家に帰れる道はどっちですか」と犬さんに聞いてみると、少し左に向いたような気がして左の方に進んでみる、というようなことを繰り返していきました。
私自身が、今自分がいる場も含めて自分であるという感覚が最近特に大きくなってきていて、今いるところに必要な情報は全てあるんだろうと思うようになっています。
どれだけ必要な情報をつかみ取れるかという問題はありますが、それは慣れていけばどんどん増えていくものだという感じはあります。
そして、たぶんそれは、今にいればいるほど簡単になるんだろうと感じています。
こういうところに意識を向けていると、考えるというのとは全く違う世界です。
最後に家に着いた時に子供は、とても不思議な感じと何とも言えない面白さ、自分の感覚を信頼して良いような自信のようなもの、周りとつながっているようなサポートされているようなそんな感覚を感じていたようです。
何より、目がキラキラしていて、またやりたいと言っていたのが印象的でした。
私自身は、一生懸命考えて考えて突き詰めて答えを見いだそうとした期間が数十年ありましたが、これからはいつも自分自身であってうまく感覚を使えるようになっていく方がいいように感じています。
ただ、ある程度考えて考えてというプロセスを経ないと他の選択肢を選べないような人もいるので、その場合は気が済むまでやってからということになるんだと思います。
サポートする側からすると、自分が知っているできるだけ速くて簡単なルートを提案しますが、最終的には本人選択になります。
そして、人からどう見えようともその選択はその人にとってはベストなタイミングなんだろうと思っています。
この感覚や直感を使おうとする時に、悲しみや怒り、心配、不安など強い感情があったり、「こうでなくてはいけない」という強い制限があると、なかなかうまくキャッチできません。
直感の声は、必ずしも常識的ではないし、囁くような小さな声であったりします。
大きく感情が揺さぶられることなくニュートラルで、制限が少なく自由であればあるほど、直感の囁くような声は、ハッキリと聞くことができるでしょう。
多くの場合、心配や不安、怖さがある時に沢山考えることで何とかしようとしている自分に気づくことができると思います。
怖さを手放せば手放すほど、考えることに執着することなく、感覚的でいられるようになります。
そして、それはなぜかとてもうまく行くような気がしています。
スカイプで「自分育て」を体験してみませんか!!
一度、1000円体験コーチングを試してみませんか!!
←コラム一覧へ戻る
Copyright (C) 2007 大(dai) All Rights Reserved.
※当サイトのテキスト・画像等すべての無断転載転用、を固く禁じます。