前回は、問題はあり続ける、をみてみました。
今回は、人はどう生きるべきか、をみてみます。
昔はこういうことがテーマであれこれ考えていた時期がありました。
そして、考えれば考えるほどわからなくなっていったのを思い出します。
あっちの偉い人はこういっている、こっちの実績ある人はこう言っているというのばかりを追いかけていると右往左往するばかりでした。
また、とても自信ありげに言われるとそうかなと思い、でもこっちとあっちでは全く逆のことを言ってるし、など収まることがありません。
この堂々巡りをしばらく続けている中でふと気づくことがありました。
それは、そこに自分がいないということです。
「人はどう生きるべきか」を少しクールに見てみると、いくつか気になることが出てきました。
「人は、・・・」という時の「人」というのは誰をさすのでしょう。
今生きている人だけみても60億以上の人がいますし、過去の人まで対象に入れるなら更に多くなります。
そのすべての人が同じ生き方をするということなのか、何か共通する生き方があるということを意味するのでしょうか。
そして、それを知りたいということだったのだろうかと思うと、自分からは離れたところにある話しのような気がします。
仮にそれらしいものが見つかったとして、誰がそれを問いへの答えだと判断するのでしょう。
やはり、どこかに自分が出てこないと自分とは別の所で行われている話しのような気がしてしまいます。
「どう生きるべきか、何が正しいのか」というのから一度離れて、何かを自分にぶつけた時に自分はどう感じるのかというのを見ることを始めてみました。
すると、一生懸命考えていた時とは全く違う感覚がありました。
自分の中がキュッと縮まったり、ふわっと広がったりする感覚があることに気がつきます。
正しいかどうかとは別に自分の奥の方が喜んでいるのか嫌がっているのかが伝わってきます。
更によくよく感じていくと、感じ方にもパターンや条件反射のようなものからその時々にやってくる感覚のようなものまでいろいろとあることがわかってきました。
ここまでくると、「人はどう生きるべきか」という問いそのものが、その問いを発していた時の自分の状態を示しているような気がしてきました。
感じることをしていなかったんですね。
自分を小さく見ているというか、自分以外のものに価値があるというような前提の上に問いを発していたのかもしれないなと思えてきました。
問いの前提にある観念やものの見方にも気づいておかないと、見当違いな問いを発してしまうと延々とその問いに付き合わなければいけなくなってしまいますね。
そして、一度感じ始めると、「人はどう生きるべきか」というよりは、「自分はどうしたいのか」「どうなれば納得や満足を感じるのか」という問いに変わっていき
ました。
今はその問いの方がしっくりきます。
そして、この問いは堂々巡りに陥ることはありません。
感じていくほどに、「本当はこうしたかったんだな」「今はこうしたいんだな」というのが見えてきます。
その時に直ぐに出来ることとそうでないことはありますが、そのことに気づいているだけでも自分と一緒にいる安心感のようなものあります。
さらにいうと、「今どう感じているのか」という感じ方そのものが、まさに「今の自分」であるようにも思います。
自分が変われば感じ方も変わるし、感じ方を変えれば自分も変わる、そういう関係にあるような気がしています。
そして、今の自分が見えてくると、とても自然で心地良く感じられる部分と違和感や心地良くないと感じる部分があるのに気づきます。
そこが、これからの自分はどうありたいのか、を選択するタイミングでもありますね。
このままで良いと思える部分と(変えられるなら)変えたいなと思う部分に分かれます。
その後には、変えたいと思う部分を変えるならどう変えるのが良いかなという問いの答えに従っていくのが、自然でシンプルなのかなと思います。
常に感じていれば、今の自分がわかります。
そして、人が感じていることを知れば、その人が見えてきます。
人との関係においては、私が感じていることと人が感じていることを伝え合うことで、どういう関係をつくっていくのか、つくっていきたいのかを共同作業で見つけていければ、シンプルで良い関係がつくっていけそうな気がしています。
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